練成会とは
「練成会」とは何か
しかし、時代を超え、国境を越え、年齢を越え、立場を越えて、永遠にかわらない「根本真理」を説いているのが「生長の家」でありますので、生長の家の真理を教えられますと、すっかり悩みがなくなって、本当に喜んで帰られます。
「練成会」で多くの人が救われてゆくのは、神想観、そして聖経読誦、先祖供養、祈り合い神想観、などの“行”によるのであります。
講話とか個人指導は、練成会にこなくても、聞き、受けることができますが、“行”は練成会にくることによって、実践することができるのであります。
(『神性開発「練成会」発祥の地・飛田給』P65,69)
『神性開発「練成会」発祥の地・飛田給』より抜粋
今までの宗教が効果を奏しないで、釈迦牟尼仏が現れて二千六百何十年、イエス・キリストが現れて約二千年、その伝道者達が、道を絶えまなく説いてきても、一向人間の道徳性が良くならなかったというのは何故でしょうか。それは、人間を善くしようと思いながら、「現象の悪」について、その「悪」を捜しまわって、そして「悪」をとらえて善くしてやろうと思うから、善くならなかったわけなんであります。
人類は二、三千年の間、始終以上のような失敗を繰り返してきたのであります。
ここに生長の家が現れて今までのやり方と全然違う人間の見方、つまり「現象の悪」を見て善くしようとするんじゃなくて、その人間の奥にあるところの“実相”の「完全なるもの」「神の子なるもの」を見詰めてそれを礼拝するということによって人間を善くするという道を開いたわけなのであります。
その実践が私たちの練成道場で行われているのであります。 (『実相と現象』二三三頁~二三四頁)
“仏性”又は“神性”が宿っていながらまだ開発される機会をもたない人に、それを開発する機会を色々の方面から与えて、その人の魂を練成するのが「神性開発練成会」の使命なのである。(『真理は生活にあり』二三二頁)
(『神性開発「練成会」発祥の地・飛田給』P32~33)
●「練成会」をなぜ始めたのか
『生命の実相』に教えておられる「生長の家の生活法」を実際に行じるため
●「神性開発練成会」の名称と由来
すべての人は「神の子」でありますから、そのままで神性をもって生まれてきているのでありまして、それに気づけば(自覚すれば)出てくるのであります。決して、「悪いもの」を善くしようとするのではなく、既に「神性」をもち、そのままで「すばらしい」のであることを、練成に来られる一人、一人に気がついていただくのが、練成であります。
●「練成会」は“神の子”を引き出すところ
「闇の無を証明するものは光のほかに在らざるなり」と聖経『甘露の法雨』のなかに歌われていますように、「光」をともせば、「闇」は消えてしまうのでありまして、「神の子」(光)が出てくればあらゆる「迷い」(闇)は消えてしまうものであります。
その「神の子」(光)を引き出すのが、神性開発でありますから、「神性開発練成会」は「神の子」(光)を引き出すための練成会であります。
●俗事を離れて“心の転換”をする
「練成会」へ来ますと、とても心が変わり、イロイロの問題が解決する理由の一つに、家庭とか、職場をはなれて、合宿するということがあります。
そして、新聞も読まず、テレビも見ないで、神想観をし、聖経を読み、そして『生命の実相』の講話を聞くという、俗事をはなれた毎日をおくるので、まことに早く、心の転換(観の転換)が行われることになるのです。
●相互に“神性”を拝みだす“行”の場
練成会は、徹底して練成会にこられた方々の、神性を拝み出す「行」をするところです。
お互いに出逢えば、「ありがとうございます」と、相手の神性を礼拝する、その「行」に徹することによって、お互いの神性が発露されます。
●家で出来ない“行”も、「練成会」では出来る 練成道場で奇蹟がおこるのは、早朝の神想観の実修、聖経読誦、そして感謝行、真理の講話等々で、「生長の家」の真理を行じる結果であります。家庭をはなれて、練成道場で合宿して生活しますと、家ではナカナカできなかった「行」が、割にやさしくできるのであります。
●“真理”を説き、行ずるところ
それは、「迷い」は聖経『甘露の法雨』に示しておられますように、「真相を知らない」ことを云うのですから、真相、真理、実相がわかりますと、迷いは瞬間に消えてしまうのです。生長の家の練成道場は、生長の家の真理を説き、行ずる場ですので、迷いが消えて救われてゆくのです。
●素晴らしい、“真理”を実証するところ
どんなにオイシイ果物でも、食べてみて、本当にオイシイことがわかるので、食べないうちは本当のオイシサはわかりません。それと同じことで、どんなにすばらしい真理でも、それを実際に実行してみて、はじめて、その本当のすばらしさがわかるのです。
●「錬」ではなく「練」成会の深い意味
「錬成会」ではなく、「練成会」という名称を谷口雅春先生がつけられ、なお、その上に「神性開発」とつけられたことは、とても意義深いことだといつも思っております。
●自分の“素晴らしさ”に気づくところ
「練成会」にきてみんな良くなってゆくのは、もともと、その人びとがスバラシイからです。もともと悪い人であれば、みがけば磨くほど悪くなるはずですが、磨いてよくなるのは本質がよいからです。
●「練成会」は、神が導き給う
私はいつも、練成会を指導しておられるのは、生長の家の神様であると信じております。いろいろのことがありましても、それによって、よりよくなる、まことに不思議だと思えるようなことの連続であります。
●“総合的行事”で、“神性”が開発される
「練成会」は講話や個人指導だけで救われるのではなく、イロイロの行事によって、総合的にその人の神の子の実相があらわれて、その人の本来の「すばらしさ」が、現れ出て来るのであります。特に、道場全体の雰囲気が、練成にこられる人びとに大きい影響を与えます。
●“総合的行事”で、“神性”が開発される
「練成会」は講話や個人指導だけで救われるのではなく、イロイロの行事によって、総合的にその人の神の子の実相があらわれて、その人の本来の「すばらしさ」が、現れ出て来るのであります。特に、道場全体の雰囲気が、練成にこられる人びとに大きい影響を与えます。
●“コトバの力”で“神性”を開発する
お互いに「ありがとうございます」と、合掌礼拝しあうことによりまして、拝む方も、拝まれる方も、共に「コトバの力」がはたらいて、かくれていた「神性」が開発されてくるのであります。
●“神の癒し”が現れるところ
私たちは人のために祈ってあげて、相手が癒されますと、つい「私が祈ってあげたから、治った」と思いがちですが、そうではなく「神の癒し」が現れたのでありまして、私たちは「神」と「相手」とのアンテナになっただけのことなのです。
●すべての人を心から合掌礼拝する
「真の愛は相手に宿る神を見出し、それを拝んで引き出すことが出来るのである。愛は浄める力をもっている。」
(『神性開発「練成会」発祥の地・飛田給』P61~72)