生長の家と私・・・海外ビジネスを通して
徳久日出一さん
株式会社ワールド・ビジネス・アソシエイツ取締役副社長
中小企業診断士
出典:平成24年9月「経営トップセミナー」での講演録
幼少期からの思い出~父・徳久克己先生に連れられブラジル渡航
飛田給で生活を始めたのは昭和23年、幼稚園の頃で、それから大学卒業まで飛田給で生活していました。
思い出に残っているのは、朝起きてから夜寝るまで道場の様子が分かるので、聖経をいつも子守歌のように聴いていたことです。まさに「門前の小僧習わぬ経を読む」で、生長の家の教えを知らないときから潜在意識に入れることが出来ました。両親の教育方針で「コトバの力」を強く感じていて、父からいつもいつも「お前は神の子だから頭が良いんだよ」と言われたので、勉強しなくても成績が良かったんですね。学校で教わったことを忘れないんです。家に帰っても父からは一言も「勉強しろ」と言われたことはなくて、「お前は神の子なんだから出来るんだ」と、そういうことばっかり聞いていました。本当にありがたいですね。自分はできるものだと思っていましたので、成績も非常に良かったんですね。
それからカラダが丈夫でした。「病気はナイ」「健康なのが当たり前」といつも聞いていたので、私も子供の頃からそう思っていました。小学校で休んだ記憶が無くて、毎年皆勤賞、「少し騒ぎすぎ」と注意を受けるくらいでした。
高校に行って好きな野球ばっかりやっていたら、勉強しないもんですから成績が段々落ちてまいりまして、それでも親は「勉強しなさい」なんて一言も言わないですね。そのうちに野球に対するストレスやら先生に対するストレスで暴れまして、2度ほど停学を受けまして、それで停学を食らったらさすがに今度ばかりは親に怒られるだろうなぁ・・・と思っていたら、父はホントに怒らないですね。「あれはホントにお前がやりたくてやったわけじゃないだろう」と、あんまり怒られなかったんです。そのときに私は非常に反省しまして、やっぱり親に心配させちゃいけないなと感じたんです。
1年浪人して念願の大学に入ったのですが、最初の2年は麻雀ばっかりやっていました。昔は大学の周りは本屋か定食屋か麻雀屋ばっかりあったのですが、私は麻雀やってから大学に行っていました(笑)。高校時代から麻雀やっていたから最初のうちは知らない人に教えてやって、そして自分がいつも勝つもんだから、お昼ごはんをお金出して食べたことは無かったですね(笑)。そのうち周りの人間も強くなって互角になってきたものだから、それで麻雀は止めました(笑)。
大学3年になったら一番の親友の家がガソリンスタンドの経営をしていたものですから、新しいガソリンスタンドを始めたので手伝ってもらえないかと頼まれました。夕方から深夜まで毎日働いていましたが、その時は勉強よりも仕事の方が楽しかったですね(笑)。
大学卒業と同時に父がブラジルに伝道本部ができるということから赴任することになって、良かったら一緒に行かないかと誘われ、若い頃に外国を見ておくことは非常に勉強になるからと同行することになりました。
ブラジルで2年間父の秘書として仕事をさせていただいたんですが、その時私はブラジルに非常に感激しました。ブラジルには日系人が沢山いらっしゃるのですが、その皆さまが非常に頑張って居られるのですね。最初に日本から移民で行かれた頃は皆さん大変な苦労をされて、何も無いところで慣れない暑いところでコーヒー園に入れられ、その想像を絶する苦労を頑張ったことにより、日系人としての地位を作られたのですね。日本人の素晴らしさをそこで知ることができました。そしてその2世として生まれた日系人の方々が生長の家に触れて一所懸命活動されているのです。それを見たときに私のように日本に生まれて恵まれてきた私が何もしてこなかったことを非常に恥ずかしく感じて、少しでもお役に立とうと、父のもとでブラジルの組織の中でお手伝いをさせていただきました。
ブラジルのコトバで「ジャポネーゼガランチーノ」というポルトガル語の言葉があるのですね。これは「日本人は間違いない」「日本人は信頼できる」という意味なんです。この言葉が日本人に対する一つの形容詞になっていて、そのくらい日本人は信用が高いんです。海外に行っても日本人は本当に勤勉で、努力をする民族ですね。本当に素晴らしいと思います。そこで日本人としての自覚と喜びをますます感じたのです。
またブラジルという国が非常に素晴らしい国ですね。あそこは世界中から移民が集まってきて、今は人口が1億9千万人を超えました。そして世界中の人が集まってきているのに、みんなが仲良く暮らしているのですね。だから戦争が無いんです。余所の国は隣国間との領土戦争や民族紛争、宗教戦争などがあるのに、ブラジルにはそれが無いんです。だからブラジルという所は豊かで、ブラジル人も非常に心の優しい持ち主なんです。ブラジルというのは平和を愛する国で、そこで日本人が活躍するというのは非常に嬉しいことだと思います。
ヤオハンへの就職とブラジル出店
ブラジルから帰ってたら、ヤオハンがブラジルに出店するという話を聞き、就職を決めました。当時のヤオハンはまだ伊豆半島に10店舗くらいしかなく、そんな小規模な店舗がブラジルに出店するということで話題になりましたね。その頃ヤオハンには確かに生長の家の関係の方が何人か就職されていましたが、皆さん長続きしないようで(笑)、私も当時の人事部長から「あんたみたいなヒョロッとした人間がどのくらいもつかな?」と言われました。でも見返してやろうという気持ちが強かったですね。最初はキャベツ30キロくらいかついだらフラフラしましたが、徐々に慣れましたね。そのうちブラジル出店が本決まりになり、国内の新規店舗立ちあげに携わったり、配送センター業務や加工食品工場の責任者をやったりして準備を進めてきました。
そしていよいよ1971年(昭和46年)、ブラジルに赴任しました。とにかく小さなスーパーがブラジルに行くんですから、そう簡単には行かないですね。まずお金がない。お金を貸してくれるようなところもない。そこで「海外経済協力金」という国のお金を貸してもらおうと申請したのですが、これがなかなか降りない。もともと「海外経済協力金」というのはモノづくり、メーカーさんのためのもので、流通業に適用したことが無いんです。それで大変な苦労をしてこの協力金がやっと降りまして、開店用の資金はできたのですが、今度はブラジルに赴任した10人分のお金も無いんです。そこで最終的にはこの10人の永住権を取って、移民として渡航したんです。私も移民教育センターに2ヶ月寝泊まりして、ポルトガル語の勉強やブラジルの習慣等を勉強しました。
それらを経て私もブラジルへ参りましたが、ブラジルへ行く人達には決死の覚悟でやれということで、「ヤオハンブラジル日の本隊」という名前をつけまして、「ヤオハンブラジル成功の為の10箇条」というのを会社が作りました。この条件で納得してくれる人だけブラジルに連れて行ってやるということだったのですが、この厳しい条件にもかかわらず20人くらいの人が手を上げ、その中から10人が選ばれました。その10箇条ですが・・・
1.永住すること
2.全社員「生長の家」の信徒であること
3.就業時間は24時間と心得ること
4.社員の妻は軌道に乗るまで、社員としてはもちろんのこと、幹部社員として管理者として就業すること
(でも奥さんには給料はないんですよ・・・笑)
5.仕事を第一として、家庭は二の次と考えること
6.渡航後2年間はできるだけ出産を控えること
7.会社の配当、利益確保を絶対優先すること
(これは儲からなかったら給料はナイということですよ・・・笑)
8.親兄弟の積極的な承諾書が必要
9.ブラジル人のリーダーとして人格・指揮権・実力があること
10.自動車免許を有すること
(補足)
近親者の慶弔時と言えども帰国は不可能と思うこと
今だったら労働組合が反対してこういうことは絶対に無理ですけれど、このくらいの覚悟で行ったということですね。
それだけの覚悟で行ったから、非常にうまく行きました。第一号店は本当に大成功でしたね。やっぱりブラジルの人も日本的なサービスのデパートを待っていたのですよ。ヤオハンの店を非常に喜んでくれた。そして開店には皆さんの絶大な協力があったですね。特に生長の家の信徒を初めとする日系人が全面的に協力してくれました。
しかしそれから約10年後、ブラジルは世界最高のインフレになっちゃんたんですね。1年間で千%のインフレですよ。わかりやすく言うとお店で何かを買おうとして、1ヶ月分そのお金を取っといて1ヶ月後に同じモノを仕入れようとしてももう買えないんです。そのくらいモノがどんどん高くなってしまって、とても商売をやるような環境ではなくなってきたので、結局お店を閉めざるを得なくなりました。これは「和議倒産」だったんですけど、私はその後日本でも倒産を経験していますから、私は「倒産のスペシャリスト」でございます(笑)。倒産のことだったら何でも分かります(笑)。コンサルタントを始めるときも「倒産」を売りにしようと思ったのですけど、それではお客様が来ませんのでね(笑)、「倒産をしないようにするコンサルタント」ということでやっております。
アメリカ、そして香港へ
ブラジルが和議倒産したものですから、日本から行った人は日本で受け入れるということになりました(日本のヤオハンを退職して永住権を持っていたため)。皆さんそういうわけで日本に帰ったのですけれど、私はどうしても帰りたく無かったですね。海外でもっと仕事をしたかったものですから、どこでもいい、どこかないかと聞いてみたら、ちょうどアメリカのロスに貿易事務所がありまして、貿易の経験が無いにも関わらず「私貿易できます!」と言って(笑)、そこのマネージャとして行ったのです。ちょっと苦労しましたけど、人間誰でもそうですけど最初は誰も知らないんです。知らないんだけど努力して勉強して覚えていくんですね。で、アメリカ行って貿易のこと誰に教わったら良いかなと思ったら、みんな親切に教えてくれます。問屋さんに行けば輸出の仕方を教えてくれるし、銀行に行けばL/Cの開き方や為替の知識を教えてくれたりで、半年もしないうちに何でも出来るようになりました。
そういう仕事をしながらアメリカに4年間いたのですが、ブラジルとはとても違うのですね。ブラジルはとても大らかで素直なのですが、アメリカ人は世界でナンバーワンという気持ちがありますから、どちらかというとアメリカ人以外の人を上から見ているという感じを受けました。ただアメリカはビジネスは非常に厳しいですから、ビジネスについてはいい勉強ができました。特に時間管理とか、マニュアル・・・ああいうものはアメリカはビシッと出来ていまして、絶対に残業させちゃいかん!・・・そのくらい厳しいのですね。で、最後の1年間でスーパーをオープンさせたんですけれど、残業絶対不可が至上命令で、だから「限られた時間の中でいかに効率を上げるか」・・・これは日本以上にその技術が進んでいましたね。まあ、そういういい勉強をさせてもらえました。
そして、その時近くにあった自分もよく使っていたスーパーが、ある日突然閉まっているんですよね。どうしたんだろうと思ったら、契約が切れて店を閉店したと、新しく入りたい人を募集しているという貼り紙がしてあるんです。で、近所だったし近くに日本人も沢山住んでらっしゃいましたから、「ここに店を作ったら良いのではないか?」と、すぐに日本に連絡しました。そうしたら日本からすぐに社長が飛んできて、「これはもう居抜きですぐに店を開店できるから、キミ2ヶ月で開店させなさい」と言って日本に帰っちゃったんですよ(笑)。2ヶ月で開店しなさいと言っても私一人ではどうにもなりませんから、私もすぐに日本に行って日本から応援部隊を10人ほど連れて開店させて、私が初代の店長になりました。
アメリカでそういうビジネスをやって、マネージャやってですね、やはり自分で判断しなくてはいけない。海外にいればいちいち日本に電話で聞いてはいられないですよね。マネージャになると自分で全部判断しなきゃいけないという、判断業務をするというのが私の非常に大きな勉強になりました。
で、当時のアメリカは非常に豊かで住みやすかったので、このままアメリカに居着いても良いかなと思っていたところ、会社から「今度香港に店を出すから香港に行け」と辞令が降りて、香港に行くことになりました。最初は香港なんてゴミゴミしていてイヤだなと思っていたんですが、行ってみたら香港は素晴らしいところでしたね。昭和59年に赴任しましたけれど、アジアの熱気って凄いんですね。アジアが一番伸びている時ですから、やっぱり(自分は)ビジネスマンなんですね、熱気のあるところに活気を感じるんです。街を歩いていても歩く人の速さが違う。恐らく東京の人よりも速いですね。
僕はアメリカに4年いたのですけれど、英語があまり上手くなかったのですよ。で、香港に来たら英語の通訳をつけたのですが、香港人のセールスマンがモノを売りに来るのですけれど、まあヒドい英語なんですね(笑)。これは俺より下手だなという人が堂々と売りに来るのです。こっちがやっと聞かないと分からない英語なんですけれど、それでも堂々と商談していくのですね。そういうのを見ていてスッカリ自信がつきまして「あの程度なら俺でも出来るな(笑)」と、ホント不思議なモノです。まあ海外に出て行くにはそういう「たくましさ」が必要ですよね。
それで香港ヤオハンを開店しました。第一号店は香港の街から離れたところに作ったのですが、香港という所はあっという間に人口が増えるんですよ。一号店の場所は5万人くらいしかいなかったのが、開店する頃には30万人に膨れあがっていました。高層ビルマンションが次々出来て、あっという間に人が増えるんですね。そこにヤオハンが出店して、当時大丸さんや三越さん、松坂屋さん、伊勢丹さんなど日本からも出ていたのですが、高級品を扱うデパートばかりだったんです。ヤオハンの場合は食料品を中心に毎日使う生活必需品を扱っていましたから、香港人がターゲットだったわけです。そうしたらどんどんお客さんが入ってきたんですね。私はオープンの時は店にいたのですが、本当に目が回るようでした。恐いくらいでしたね。最初のうちは見るだけで手ぶらで帰る人も多かったですけど、安い買えるものばかりでしたから、そのうちに皆さん買うようになって売り上げも上がるようになりまして、最終的にはあの狭い香港の中で10店舗まで開店することができました。
で、私は香港で非常に良い上司に恵まれまして・・・良い上司にもいろいろ意味があるのですが、この上司があまり仕事をしない上司なんですよ。ゴルフが好きで週2回くらい朝からゴルフに行っちゃうんです。もちろん接待ですけれどね。僕は冗談で「毎日ゴルフ行って下さい。仕事は僕らがやりますから(笑)」と言ったくらいで。何故仕事をしない上司が良い上司かというと、あんまり会社に居ないわけですよ。居ないからこちらが判断しなければいけないことが多くなって、そういう意味で良い勉強が出来たということが一つ、それから何でもこちらでやらせてもらえるんですよね。香港ヤオハン社長ということになると、余所から講演を頼まれたり何かの委員会に出たりと依頼されても全部面倒くさがって「おまえやれ」って僕に押しつけるんですよ(笑)。あんまりその人はそういうのが好きでは無かったんですね。でもそのおかげで私はいろんな所へ行って講演をさせてもらったり、いろんな表彰式に出たりで、それで様々な人脈が沢山できたので、本当に良い上司だったなと今でも感謝しています。
まあ海外に行くと失敗もいろいろありまして、私も2度ほど進退伺いを出したことがあります。そのうちの一つは「契約」の問題ですね。海外に行くと契約社会ですから、契約書に書いてあることが絶対なんですね。日本では契約書に書いてあっても無くても、お互いの常識の範囲でやりますけど、向こうに行くと契約書が絶対なんですよ。だから日本の考え方で、まあこのくらいは多目に見てくれるだろうと思って、例えば店頭でモノを売りますよね、日本では店頭が一番売れますからね。ところがあるお店では契約書に「店頭では販売してはならない」と書いてあるんですよね。それを違反して店頭で売っていると「すぐ引っ込めなさい」と言ってくるんです。しかし現場の担当者は売り上げを上げたいから、そんな言うことを聞きません。で3回くらいそれを繰り返すと必ず弁護士から手紙が来ます。「契約違反だからすぐに改めなさい」と。そしてそれを無視すると、本当に店を閉めなければならなくなっちゃうんですね。そういうことを私もわかっているつもりでも、ついつい日本式にやってしまってもう少しで店を閉めなければいけなくなりそうになったことがありまして、会社に損害を与えたりしたものですから、進退伺いを出したこともありました。
海外でビジネスをする方へのメッセージ
当時の日本は円高でバブル絶頂期、ヤオハンも日本より海外の方が売り上げが良いということで海外にどんどん出店し、そして「ヤオハンインターナショナル」として本部を香港に移し、和田一夫会長が直々に香港に来られて陣頭指揮を取りました。考えてみたら私は和田会長と一緒に仕事をした経験があまり無かったんです。会長は非常に朝の時間を生かすのですね。朝5時からマネージャは時間を変えながら和田会長に電話連絡し、その時会長の秘書をやっていた私は最後に6時に連絡を取ると、会長からいろいろな指示があって、もう重要な事項は全て朝のうちに終わってしまうのですね。この朝の時間の使い方は本当に素晴らしいなと思いました。
その後私は1995年に帰国し、アジア経済人懇話会という経済団体に出向したりして、その間にヤオハンは上海に大きなデパートを開店させて、ヤオハンが倒産する・・・ということになってくるのですね。
平成9年にヤオハンジャパンが倒産しました。一言で言いますと倒産の原因は「財務の失敗」ですね。お金があるとどうしてもお店を豪華に作っちゃうんですよね。だから投資の回収に時間がかかってしまった。そして急激に大きくなると、人材が充分育ってないですね。だから急に大きくなるといろんなひずみが生じると思うんですけど、それを上手くコントロールしなければならなかったのですね。ま、これは今だから言えるんですけどね、自分がコンサルタントになって後から分析しますと、そういうことが思い当たったと言うことです。で、負債額が1858億円、ただラッキーなことにジャスコさん(現在イオン)が引き受けてくれてスポンサーになってくれて、そのお陰で完全に再建しまして、「マックスバリュー東海」という社名は変わりましたけど、昔のままの店舗でまた再上場してやっています。だから昔ヤオハンで働いていた人達、辞めなかった人達はまたそこで採用されて働いていますから、またお客様にとってもいつも行くお店が無くならなかったから、そういう意味では非常に良かったと思っています。
海外で私もいろいろ勉強させていただいたんですが、海外に出るときに一番大事なことは事前準備をしっかりするということですね。そのために入念に調査をする。徹底的に調査をすると間違いが少ないですね。それから目的をハッキリさせること。何のために海外に行くのか。目的がいい加減だとやっぱり上手くいきません。目的をしっかりすると、そこで初めて「智慧」が出てくるんですよ。人間の心ってそういうものなのですね、やっぱり目的がハッキリしていないと智慧も出てこないんですね。そして将来性の展望と事業計画をしっかり立てること。これは当たり前ですね。そして大事なことは「異文化コミュニケーション」。国が違うと文化が違いますから、習慣も違います。もう現地に行ったら現地の習慣を理解してそれに上手く当てはめていかなければいけない。日本式を押しつけるよりも、現地のやり方・システムを早く身につけて現地化が大事です。そのためにコミュニケーションというのは非常に大事ですね。
まあ「異文化コミュニケーション」って外国に対して使っていますけど、日本国内でもあるんですよね。特に最近の若い人達と年配の幹部の人達とでは考え方が違いますよね。それも「異文化コミュニケーション」だと思うんですよ。だから決して海外だけのことではないですよね。で、やっぱりこの「異文化コミュニケーション」を上手くやるためには、相手を理解するということですよね。相手の立場になって考える、そうして行動を起こすと、まず間違いは無いですよね。日本式を押しつけても反発を買うだけですから、まずは向こうの言うことをよく聞いてあげて、向こうの人達がどうやったら喜んで働いてくれるか、ということですよね。やっぱりそこに「調和」が無ければビジネスというのは上手くいきませんね。そういうことでコミュニケーションというのは非常に大事ですね。そして現地の協力者・人脈を作ることです。現地に協力者がいれば、会社ってなかなかつぶれないですよ。つぶれそうになったら皆協力してくれますよ。「ヤオハンつぶしたら大変だ!」と言って皆協力してくれますからね。協力者を沢山作ること。
そしてやっぱり海外に行ったら「日本人の素晴らしさ」「日本企業としての素晴らしさ」・・・これをこれから海外に出ようとする企業には是非お願い致します。本当に日本人は、その勤勉さ、時間を守る、モノを作っても非常に正確に作りますね。こういうのは外国では真似のできないことがいっぱいあります。やはり日本人がそういうことを教えていかなければいけない。そしてもう一つは日本人の「和の心」ですよね。皆さんと協力し合ってやっていく。東日本大震災が起きたときの、困ったときにみんなで助け合う姿、ああいうのは外国では考えられないことですよね。日本人というのはすごい民族なんだと。そういう日本の良いところをこれから海外に出て行く所には是非やってほしいな・・・と、いつもそういう話をさせていただいています。
コンサルタントをやっている視点からして、今言ったことが大事であると思っています。そして責任者がしっかりしていないと絶対に上手くいきません。責任者が「絶対成功するんだ!」という「信念」をもって、やっぱり「信念」があると「智慧」も出てくるんですよ。そして人も付いていきますよね。それがリーダーシップですよね。そして先程も言いましたが「現地化」。現地に行ってそこの国のお役に立つということですよね。お役に立つようなビジネスをやっていればみんな応援してくれますよね。そうやって進出先の信頼関係を作っていくということですね。
そして人を育てていかなければいけませんね。人材育成・能力開発が大事となります。人を育てる上で大事なことは「ほめて育てる」ということですね。怒っても人は育ちません。やっぱりほめられたときに一番喜んで働くようになりますよね。良いところをほめて良いところをほめて、そうやって人は育つんですね。人間はもともと無限の可能性をもっているのですから、ほめることによってそれがどんどん出てくるんですね。
そして海外に行けば日本以上にスピードが求められます。速いですね。変化が激しいですから。特に今の世界では色んなことが起こっていますから、何か起きたらすぐに手を打たなければなりません。ところが日本は割とそのへんはのんびりしているところがあるかなと思いますが、特に海外に行ったらスピードと柔軟性が必要です。世の中の変化に応じて柔軟に対応することも大事ですね。
後は「リスク管理」。どんなに調査をしても計画通りいかないケースもあります。そういう場合は撤退を予め視野に入れた「撤退リスク」も計画の段階で入れておいた方が良いですね。これはあまり日本人はやらないんですけど、海外ではごく当たり前にやっていて、そういうことで損失を最小限に止めているのですね。
まあ自分の経験から色々話させていただきましたけれども、体験を通じて大切にしていることは以下の3つです。
1.感謝の心
当たり前のことですが、自分が生かされていること、ご先祖様にも感謝する。そして全ての人・事・物に感謝する。で、自分が感謝をすると同時に今度は人に喜びを与える。喜びを与えるためには相手の立場にたって考えること。そうすることによって良い「智慧」が出てくるんですね。ですから「感謝の心」っていうのは私は一番大事だと思います。
2.明るい心
明るい心を持っていると、明るいところに人は集まってくるんですよ。「明るい心」になるためには、何事も楽しんで取り組む、ということですよね。そして物事を前向きに素直に考える。あんまり取り越し苦労しないことですね。そしてユーモアや冗句で笑うことが良いですね。
ブラジルの方は非常に陽気で、ユーモアが好きなんですね。でも先程も言いました通りブラジルって色んな国の人が移民として来て文化が異なるんだけれども、ユーモアや冗句によって心が一つになるんですね。そしてブラジル人って失敗しても、その失敗した本人が次の日には笑い話にしてるんですね。これは見習いたいと思います。
3.強い信念
人間には無限の可能性があるんだ、という強い信念を持っていれば、恐いものはないですね。私も海外ではいっぱい失敗をしました。でも失敗をしても「これで必ず良くなるんだ!」と思えるんですよね。だから絶対に悪い方には考えないですね。与えられた結果・出た結果を受け入れる。どんな結果が出ても「これが今の自分にとって一番良いことだからこうなったんだ」と受け入れるんですね。そうしますと必ず良いことが出てきます。
これからも出来るだけ自分が関わる皆さまのために、一所懸命やっていこうと思います。本日はどうもありがとうございました。
※体験者の年代表記は体験当時の年代となります。