見えなかったものが見えた瞬間(とき)

村上和雄さん


●筑波大学名誉教授



出典:『奇跡を呼ぶ100万回の祈り』P10~17抜粋


あの日から、「何かが変わった」と感じている人は多いのはないでしょうか

2011年3月11日。私たちは未曾有の大地震、大津波、原発事故の同時発生という、世界の歴史の中でも稀な大惨事に見舞われました。

その瞬間まで、誰もが当たり前のように享受していた「日常」が文字通り崩れ去ったのです。慣れ親しんだ風景が一変し、身近な人や物を失い、残ったのは瓦礫の山。21世紀の日本で、そんな世界が現実のものになるとはだれが想像したでしょう。

「有り難い」命を持ち、生かされている私たち

自分の命、そして今回の大震災で失われた多くの命。どちらも本当に尊いものです。これだけ科学や技術が進歩しても、そして世界中のお金をつぎ込んでも、私たちは命のもとになる細胞一個すらつくりだすことはできない。そのようなすごい細胞が約60兆個もそろい、それぞれの役割を持ちながらお互いにきちんと調和して、この命を動かしているのです。

まさに奇跡といってもいいぐらいです。

私はよく「ひとつの命が誕生するのは1億円の宝くじが100万回連続で当たるのと同じくらいの確立なんですよ」ということをお話しします。

これは、生物学における世界最高レベルの賞「ダーウィン・メダル」を日本人で唯一受賞された遺伝学者の木村資生(もとお)先生がおっしゃっていたことです。
そんな奇跡の集合体である命を自分は持ち、さらには「生かされている」ということを病気を通して気づき、また今回の大震災によって覚醒させられた思いがします。
まさに「有り難い」命を持ち、生かされている私たちが、ただただ悲嘆にくれていたり、何も考えず無為のうちに過ごして良いはずがないのです。それこそ亡くなられた方々に申し訳が立たないでしょう。

目に見えない大切な何かを置き去りにしてきてはいないか

どんな物ごとにも、目に見える面と見えない面があります。今回の震災でいえば、未曾有の被害、さまざまな混乱というものは目に見えます。そして、私たちは、その目に見える部分で嘆き悲しみ、無力感や絶望感を持ち、目に見える世の中のインフラや機能が回復してきたことに希望を持ちます。これは、当たり前のこと。ですが、もう一方の「見えない面」にも意識を向けるべきではないでしょうか。

日本人は、本来目に見えないことを大切にして、何か行動するときには森羅万象を慮る心を持って生きてきました。自然の恵みを育む太陽を「おてんとうさま」と敬い、おてんとうさまに恥ずかしくないように、と生き方を律して、何かの恩恵を受けても「おかげさま」と感謝する。そうした、見えないものへの畏敬の念を、特別な祈りの中だけでなく、日常の中で持ち続けてきた民族だったはずです。

その日本人が、目に見える経済効率やシステム、技術といったことばかりに重きを置いた営みを送ってきた中に起こった今回の大震災。
これは、そうした日本を憂う、大自然からの何らかのメッセージと思えてならないのです。

私たちは、目に見えない大切な何かを置き去りにしてきてはいないか。そのことを今回、私は意外なところからも気づかされました。

『Pray for japan』―日本のために祈ろう

現代はインターネット社会です。日本で起こった大震災とその被害の詳細は、瞬く間に世界中を駆け巡りました。すると、こんなメッセージがインターネット上で飛び交い始めたのです。

『Pray for japan』―日本のために祈ろう。

写真で、ツイッターというメッセージブログで、世代も国境も宗教も超えて、世界中から届けられた「祈り」の言葉。これまでにも世界では、さまざまな災害や危機がありましたが、こんなにもひとつの国もために「祈りのリレー」が行われたおとはかつてなかったことでしょう。このような状況で、直接被災者に届かないかもしれない、しかしそれでも、祈らずにはいられない。そんな何とも形容しがたい思いや気持ちが、世界中から伝わってきたのです。それは、魂がふるえるような出来事でした。

と同時に、その思いに感応するように「今こそ頑張らなくては」「何か自分にやれることを始めなければ」「もう一度、我々本来の姿に立ち返らなければ」という気持ちのスイッチが多くの日本人に入ったのも事実です。

震災では、目に見えるものが破壊されましたが、同時に「目に見えない大切なもの」が自分たちの心の中に残っていると多くの人が気づいたのです。
それは、先ほど触れたように、日本人が本来持っていた豊かな精神性の灯(あか)りに再びスイッチが入れられたことで、照らし出され見え始めた瞬間(とき)だったのかもしれません。 



※体験者の年代表記は体験当時の年代となります。